呆けてたじいちゃんが大変みたいだ。長いこと全然会ってなかったし大した思い出もないので、危篤とか言われてちょっと困っている。来年の年賀状は無しだなとかそんなことを考えている。孫だということでそれなりに好いてくれてただろうし、お小遣いをもらったりもしたし、葬式にはでなくちゃいけないのかな、と思う。これはじいちゃんに対する気遣いではなく、ばあちゃんやその他親戚に対する気遣いだ。葬式なんて生きてる人間のためのもの。じいちゃんは、まあ、勝手にどこか天国みたいなところに行くだろう。
大した思い出はないのだが、あるとすれば去年の春と今年の春のものだ。それ以前のことは幼少期の記憶の彼方に失くした。
去年の春に会ったときは耳が遠いけど大体は元気な様子だった。昔教師だったから地元の歴史なんかに詳しくて、訊いてもないのにべらべら話してくれた。花や鳥もよく知っていて、散歩しながらあの花は何々だ、この囀りは何々だと話してたし、レストランで見た見慣れない花については図鑑で調べたりもしていた。
一番印象的なのは、相当久しぶりに会ったわたしに対し、「もうじいちゃんは歳をとったからそんなに先が長くはない。大きくなったお前に会えて思い残すことはなくなった、これでいつ死んでもいい」というようなことを言われたことだ。わたしは「いやいやまだお元気じゃないですか」みたいなことを言って愛想笑いをしたのだが、今になって思えばあれはじいちゃんの本気だったらしい。
今年の春のことは日記にもある通りだが、じいちゃんは去年よりも耄碌ぎみだったんだ。それでも歴史のことは話してた。昔覚えたことは覚えてるけど、最近のことは記憶が変だったりするらしかった。耳が遠く、歴史の話や説教臭い話は正直退屈だった。ただ、こんなに進行が早いならもっと相手をしてあげたら良かったのかもしれないと、後悔する気持ちが全くないわけではない。
大したことじゃないと思ってたけど、やっぱりなんだか感傷的だな。